笹山登生のウォッチ&アナライズ –


2009年10月1日

井金融相のモラトリアム構想の意図の根底は尊重すべき

Category: 未分類 – Tatsuo Sasayama 10:40 AM

亀井金融担当大臣のモラトリアム(ローン返済猶予)構想が波紋を呼んでいるが、金に困っていなさそうなテレビ・コメンテーターのもっともらしい薀蓄には、ちょっと、辟易するものさえ感じてしまう。

私は、モラトリアム・スキームの詳細の検討についてはしっかりやっていただきたいが、やはり、亀井金融担当大臣が今回の提案をするにいたった意図の根底には尊重すべきものがあると思う。

それは、竹中金融担当大臣の時に、決済機能の回復のみを旗印にして、金融機関をBIS規制遵守で萎縮させた結果、末端借入者に何が起こったのか、ということについての時代検証の必要性でもある。

マクロ経済において、地価が下がり、担保割れがおきれば、担保対象不動産を処分しても、残債が残る。

金融機関にとっても、多少の返済猶予の貸し出し条件変更に応じたほうが、結果回収できる実入りは多かったはずである。

しかし、BIS基準に基づく金融庁の検査強化に恐れて、金融機関は、表面上の不良債権をいかに少なくするかに没頭し、貸し剥がしによって、まだ生きるかもしれない借り手をどうしようもない状態にしていったのである。

親鶏を早々と殺しておいて、卵で返せ、と、迫るのとおんなじ、無茶な論理である。

つまり、銀行は、自己資本比率維持のため、その「分母」となる総資産の圧縮を、不良債権の売却、貸し渋り、貸し剥がしによって、圧縮させていったのである。

地価が下がり、デフレが進行すれば、既往貸出の無担保比率は、当然向上する。

しかし、その無担保比率の向上自体が、銀行に必要とされる自己資本の増大を招いていく。

追加担保徴求が不可能であれば、銀行としては、分母を切っていくしかなくなってしまう。

公的資金注入には、名乗りを上げる勇気が当時の金融機関になかったことが、これらの末端借入者へのしわ寄せを一層よんだと見ていいだろう。

つまり、マクロでの地価下落分が、玉突き衝突的に、末端の借り手の残債となって、残ったという構図である。

今回の亀井提案は、あまりにダイレクトすぎる提案であるとはしても、もっと、いろいろなポリシーミックスをすることによって、今、モラトリアム提案に提示されているいろいろな懸念は払拭できるものと思われる。

たとえば、今回のアメリカの金融危機で、なるほどなと思ったのは、アメリカは、金融機関の必要であるないにかかわらず、当初の段階で、公的資金注入を全金融機関ほとんどに強制的に割り当てたことである。

このことで、公的資金を受ければ信用収縮の風評被害が出るという、金融機関の懸念が払拭されたのである。

それと、必要と思われるのは、残債を損きり・免責することで、金融機関がメリットを受けられるような、インセンティブを、マクロ的に政策のなかに盛り込むことである。

現在、金融機関は、回収不能債権を系列のサービサーに投げることによって、損きりが確定し、整理損や貸付金の否認分を繰り延べ税金資産にカウントすることで、未収還付事業税を納入し、負債整理の決着が付くことによって、税効果会計による高率の還付加算金つきで返ってくるというメリットが得られる。

金融機関のサービサーへの債権譲渡の際の卸値は、ものによっては、10分の一以下、平均、5%程度といったもののようである。

しかし、その売却債権の仕入れ値は、一切、金融消費者たる債務者には、明らかにされていない。

債権譲渡された債権者からは、そ知らぬ顔で金融消費者たる債務者への請求が来る。

まるで、中古のジャンク同様のテレビをそ知らぬ顔で、新品の値段で売ってくるようなものだ。

ここにおいても、債務者は、デフレの最後のつじつまあわせとなってしまっている。

債務者は、金融消費者であるという視点が、ここでは、すっぽりぬけ落ちているのである。

弱い金融消費者に対するデフレのドミノ的転嫁は、ここでもおこっている。。

そこで、今回の亀井提案を、より、精緻な形で政策に生かすとすれば、マクロ的に言えば、金融消費者としての債務者のセーフティーネットをどのようにきづきあげていくのか、ということになる。

ちょっと考えただけでも、金融機関が損きりをしやすい税制面での環境作り、金融庁の金融機関検査基準の緩和、金融機関の金融消費者としての借り手に対する、サービサーの仕入れ値の公表の義務付け、譲渡債権の仕入原価公開主義に基づいた債権請求の遵守、などなどが必要になってくるものと思われる。

ブラックスワンの著者で有名なナッシム・タレブ氏は、次のようなことを言っている。

「これまで目を隠してスクールバスを運転してきたもの(金融資本の運営者)へ、再度、スクールバスの運転を許してはならない。」

「壊れてしまった卵でオムレツを作るように、これまでの資本主義のスキームの立て直しを図るのではなく、資本主義バージョン2.0としての新しいスキームの元で、金融資本主義の立て直しを図らなければならない。」

亀井金融担当大臣の提言の意図の根底は尊重すべき

Category: 未分類 – Tatsuo Sasayama 10:39 AM

亀井金融担当大臣のモラトリアム(ローン返済猶予)構想が波紋を呼んでいるが、金に困っていなさそうなテレビ・コメンテーターのもっともらしい薀蓄には、ちょっと、辟易するものさえ感じてしまう。

私は、モラトリアム・スキームの詳細の検討についてはしっかりやっていただきたいが、やはり、亀井金融担当大臣が今回の提案をするにいたった意図の根底には尊重すべきものがあると思う。

それは、竹中金融担当大臣の時に、決済機能の回復のみを旗印にして、金融機関をBIS規制遵守で萎縮させた結果、末端借入者に何が起こったのか、ということについての時代検証の必要性でもある。

マクロ経済において、地価が下がり、担保割れがおきれば、担保対象不動産を処分しても、残債が残る。

金融機関にとっても、多少の返済猶予の貸し出し条件変更に応じたほうが、結果回収できる実入りは多かったはずである。

しかし、BIS基準に基づく金融庁の検査強化に恐れて、金融機関は、表面上の不良債権をいかに少なくするかに没頭し、貸し剥がしによって、まだ生きるかもしれない借り手をどうしようもない状態にしていったのである。

親鶏を早々と殺しておいて、卵で返せ、と、迫るのとおんなじ、無茶な論理である。

つまり、銀行は、自己資本比率維持のため、その「分母」となる総資産の圧縮を、不良債権の売却、貸し渋り、貸し剥がしによって、圧縮させていったのである。

地価が下がり、デフレが進行すれば、既往貸出の無担保比率は、当然向上する。

しかし、その無担保比率の向上自体が、銀行に必要とされる自己資本の増大を招いていく。

追加担保徴求が不可能であれば、銀行としては、分母を切っていくしかなくなってしまう。

公的資金注入には、名乗りを上げる勇気が当時の金融機関になかったことが、これらの末端借入者へのしわ寄せを一層よんだと見ていいだろう。

つまり、マクロでの地価下落分が、玉突き衝突的に、末端の借り手の残債となって、残ったという構図である。

今回の亀井提案は、あまりにダイレクトすぎる提案であるとはしても、もっと、いろいろなポリシーミックスをすることによって、今、モラトリアム提案に提示されているいろいろな懸念は払拭できるものと思われる。

たとえば、今回のアメリカの金融危機で、なるほどなと思ったのは、アメリカは、金融機関の必要であるないにかかわらず、当初の段階で、公的資金注入を全金融機関ほとんどに強制的に割り当てたことである。

このことで、公的資金を受ければ信用収縮の風評被害が出るという、金融機関の懸念が払拭されたのである。

それと、必要と思われるのは、残債を損きり・免責することで、金融機関がメリットを受けられるような、インセンティブを、マクロ的に政策のなかに盛り込むことである。

現在、金融機関は、回収不能債権を系列のサービサーに投げることによって、損きりが確定し、整理損や貸付金の否認分を繰り延べ税金資産にカウントすることで、未収還付事業税を納入し、負債整理の決着が付くことによって、税効果会計による高率の還付加算金つきで返ってくるというメリットが得られる。

金融機関のサービサーへの債権譲渡の際の卸値は、ものによっては、10分の一以下、平均、5%程度といったもののようである。

しかし、その売却債権の仕入れ値は、一切、金融消費者たる債務者には、明らかにされていない。

債権譲渡された債権者からは、そ知らぬ顔で金融消費者たる債務者への請求が来る。

まるで、中古のジャンク同様のテレビをそ知らぬ顔で、新品の値段で売ってくるようなものだ。

ここにおいても、債務者は、デフレの最後のつじつまあわせとなってしまっている。

債務者は、金融消費者であるという視点が、ここでは、すっぽりぬけ落ちているのである。

弱い金融消費者に対するデフレのドミノ的転嫁は、ここでもおこっている。。

そこで、今回の亀井提案を、より、精緻な形で政策に生かすとすれば、マクロ的に言えば、金融消費者としての債務者のセーフティーネットをどのようにきづきあげていくのか、ということになる。

ちょっと考えただけでも、金融機関が損きりをしやすい税制面での環境作り、金融庁の金融機関検査基準の緩和、金融機関の金融消費者としての借り手に対する、サービサーの仕入れ値の公表の義務付け、譲渡債権の仕入原価公開主義に基づいた債権請求の遵守、などなどが必要になってくるものと思われる。

ブラックスワンの著者で有名なナッシム・タレブ氏は、次のようなことを言っている。

「これまで目を隠してスクールバスを運転してきたもの(金融資本の運営者)へ、再度、スクールバスの運転を許してはならない。」

「壊れてしまった卵でオムレツを作るように、これまでの資本主義のスキームの立て直しを図るのではなく、資本主義バージョン2.0としての新しいスキームの元で、金融資本主義の立て直しを図らなければならない。」

内需振興と貿易保護主義を結びつける自国通貨安という構図

Category: 未分類 – Tatsuo Sasayama 10:37 AM

G20で、内需振興の方向での合意ができたといえ、いったい、今、世界のどこの国で、本気になって、内需振興を志向している国が、日本以外にあるのでょう?

内需振興とプロテクショナリズムとは、アメリカにとっては一致しているが、アメリカ以外の国にとっては、どうなのだろう?

バイ・アメリカンで割を食らうのは、アメリカ以外の国、バイ・ジャパンで割を食らうのは、高い消費資材を買わせられる貧乏人。

って言う構図なんでは?

G20では、そもそも、かってに違う概念で、内需振興に合意していたのではないのでしょうかね?

このような指摘は、アメリカにもあるらしく、このサイト「GRISWOLD: Obama’s protectionist policies hurting low-income Americans」では、オバマ政権のバイ・アメリカン政策は、安いタイヤや衣料しか買えない低所得者を直撃する、としています。

どうも、この一見格好のいい内需振興の言葉のコインの裏側には、バイ・アメリカンに追随させられるような言葉のあやがあると思うのは私だけでしょうかね?

各国が、今、どの主要国も、ビナイン・ネグレクト(慇懃なる無視)で、自国通貨安を容認しているのは、一方で、プロテクショナリズムを志向しながら、輸出条件を通貨安で、補おうとしている、そんな思惑が働いていると見るのは、意地悪すぎるでしょうかね。

つごうのいいプロテクショニズムを志向する一方で、自国通貨安を志向することで、一見大儀に見える内需振興というパラメーターは、、見事に、プロテクショニズムの別のキーワードに合成されてしまうのです。

自国通貨安をパラメーターにしての、不可逆的なプロテクショナリズムの志向というわけです。

G20の中で、一番バカ正直に見えるのは、内需振興と円高容認とを、まさに寸分違わない平仄したスタンスで主張している日本だけ、と、みえてしまいますね。

だったら、内需振興を言うのなら、堂々と、バイ・ジャパニーズを主張すればいいじゃありませんか。

しかし、その結果生まれるのは、バイ・アメリカンですでにアメリカに生じていてるらしき、貧困者いじめの内需振興であり、プロテクショナリズムです。